理解しなくていい

灯り-1 日記

こんにちは。前に「意見を取り入れる」という話を書きましたが、これとはちょっと違う話です。どちらかというと「誰かのためって本当に誰かのため?」に近い話です。

わたしは過去に、非常に非常識な人たちに囲まれて、仕事をしていたことがあります。

非常識とは言っても、わたしから見た非常識であって、彼女たちからしてみれば、わたしの方が非常識でした。

どの位置に立つかで、物事は違って見えます

普通って?常識って?

誰から見てそうなの?

正にこれです。過去のわたしは、何とかして彼女たちを理解しようと努めていましたが、一向に理解できませんでした。彼女たちの世界は、わたしの位置からは、どうしても理解できなかったのです。そして数年かけて出した結論は、

理解しなくていい

です。わたしがこの頃に理解しようとしていた、「理解」という内容は、突き詰めれば「彼女たちの非常識を、何とかして納得して、それを自分の世界に取り込むこと」でした。

でも、そんなものは、取り込まなくていいのです。納得する必要もありません。

わたしと同じように、「彼女たちの非常識を理解できない」と言ってくる人には、わたしのこの結論を伝えました。わたし自身も、「理解しない」「考えない」というスタンスに立つには時間がかかりましたが、これが出来るようになると、案外楽になるものですよ。

日本の常識は海外の国での非常識、もしくは海外の国での常識は日本では非常識ということがありますよね。

こういう時、海外の人に「それは非常識です」なんて言って、彼らの培ってきた慣習を変えようとしますか。しませんよね。「この国では、これが普通なのだな」と、理解してしまいませんか。

考え方としては、これと同じです。

日本の文化は日本の文化
海外の文化は海外の文化
わたしの普通はわたしの普通
彼女たちの普通は彼女たちの普通

なのですよ。「そんなものなのだな」とだけ理解しておけばいいのです。わざわざ自分の世界に取り込む必要はないのです。

ちなみに、非常識な人たちに、「それはおかしいから、考えを変えるといいよ」と、自分の常識に合わせた人になりなさいよ、と、相手を変えようとしてはいけませんよ。

そんなことをすると、相手方から「あなたの方こそ、おかしな考えですよ」と、相手に合わせた人になりなさいよ、と言われてしまい兼ねません。

もちろん、「それもそうだな」と思うのであれば、考えを変えていってもいいと思うのですが、そうではないのなら、無理をして理解しなくていいのです。それは、相手も同じです。無理に自分を理解してもらおうと、思わなくていいのです

もしもそれが必要な事だったのなら、すんなり理解できる日が来るものですから。

意見を取り入れる

誰かのためって本当に誰かのため?

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