決められないは捨てられない

食べ物 日記

こんにちは。なぜかいつも決断に迷う人っていますよね。自分のことなのに、どうしていいのか決められない。他人に何でも決めてもらいたがる人というのは、一定数いらっしゃるそうです。

レストランへ行って、何を食べようかメニューに迷うことがあっても、最終的には自分で「これにしよう」と決めるものです。でも、こういうことでさえ、決められないというのです。

子どもの頃は「今日はこの服を着ようか」とか、「これを食べようか」とか、「公園で遊ぼうか」など、親が色々と決めるものですが、ある程度大きくなれば、子ども自身が自分でやりたいことを決めるものですよね。

就職活動の中で、面接官に「どうして当社を選んだのですか」という問いかけに、一瞬言葉に詰まる経験をしたことは、誰にでもあるかと思います。「なんとなく、良いと思ったから」なんてことは、答えられないですものね。

「親が良いと勧めてきたからです」「先生が、給料が良いから生活に困らないぞ、と言ったからです」と、悪びれることもなく答える人もいらっしゃるそうですが。

もしも、自分で決められない人が上司になった日には、目も当てられません。「社長に聞いておくよ」と言った切り、答えが返って来ない、なんてこともあり得ます。決定権が与えられている内容にまで、社長の指示待ちをしていては、仕事が進みませんものね。

ある人が、何もかもを親任せにしてしまう子供に、質問をしたそうです

「どうして自分で決めないの?」

「だって、もう一つの方も気になるもの。どっちかなんて選べないよ」

この答えから、選べない理由は、Aを選んだ先の未来と、Bを選んだ先の未来の両方を知りたい、ということがわかりました

なるほど、どちらの未来も気になります。選ぶという事は、何かを捨てるという事です。Aを選べば、Bを捨てることになります。分かれ道で、右へ進めば左へは進まないという事になります。戻って左に進み直すことは出来ますが、「右の道から引き返す」ということもまた選択です。

どちらかを選んだ先で起きる出来事は、選ばなかった方とは違うことが起きているのかも知れませんが、どちらでもいいから進むことに意味があります。進んで行くからこそ、次の展開があり、起きた出来事を体験することが出来るのです。

選ばないという事は、一歩も進まない状態で、いつまでも足踏みをしていることと同じです。

自分にとって何が必要で、何が不要なのかを理解しておくことが、選ぶ時の基準になります。「迷ったら、面白いと思う方を選ぶ」とか「最初に思った方を選ぶ」など、自分の基準を決めておくことで、段々と自分で選べるようになるでしょう。

昔のゲームでは、セーブ枠がいくつかあって、物語の分岐点で二つセーブして、一つのルートを進み、ある程度進んでから、もう一つのセーブを立ち上げて、別のルートを進むことも出来ました。(わたしは、そういうことはしませんでしたが。)

でも、人生は時間を戻すことが出来ないので、その都度、自分の意志で決定していく必要があります。自分で決められないからと言って、他人に決めてもらう人生は、果たして楽しいのでしょうか。

「今日は何を食べたいですか」

「どんな映画を見たいですか」

「この後は、何をして過ごしますか」

自分にとっての不要な選択肢を「捨てる勇気というものを、持ちたいものですね。

許可取りの話

三次元から離れた意識を持つということ

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