自分を律することについて

月-2 その他

こんにちは。

みなさんは自分との約束を厳格に守る人ですか。

わたしは割とそうです。自分で決めたルール、もしくは小さいころから諭されてきたことを、律儀に守り続けている方だと思います。

意識的に自分で決めたルールは自覚できると思いますが、小さいころから大人に諭されてきたことというのは、どこからが自分の意志なのか判断が付き兼ねますよね。知らずにこうだと思い込んでいて、自分に合わないことでも、みんながやっていることだから、これが出来ないなんて恥ずかしいことだ、とか思っていたりすることって、案外たくさんある気がします。

例えば、大人なのだから、女の子なだから、長男なのだから、親なのだから、上司なのだから、といった具合です。

怠惰な自分にならないように、時にはこういったことを思って、自分を律するのは必要かもしれませんが、常日頃から自分に厳しくしていると、他人にもそれを求めるようになってしまいます。自分に厳しい人は、他人にも厳しいと聞いたことはありませんか。

そのことをよく考えてみると「自分はこんなに我慢しているのに、どうしてあの人はあんなに奔放なんだ!」と、怒りが込みあげているのです。更によく考えると、「本当は自分も奔放にしたい」という気持ちがあるということなのですよね。だから奔放な人を見ると、羨ましくなってしまうのです。その気持ちに蓋をしているから、怒りとなって出てきてしまうのですね。

以前、怒りの根底には悲しみがあるという話をしたことがありますが、よくよく自分に問いかけてみると、怒りとは違った答えが見つかるものです。(怒りの根底には

厳格にルールを守る人は、奔放な人を見るたびに「あんな風になってはいけない」と、更に自分に鞭を打って律し続けてしまうのです。

過去のわたしもそうでした。「自分はまだまだだ」と思って努力している割には、何も報われた感もなく、周囲はわたしに厳しいばかりでした。

でも、今ならその理由が分かる気がします。

自分に厳しいから、自分に厳しさが返って来るし、まだまだ未熟だと思うから、自分が未熟な状況を突き付けられるのです。鏡の法則ですね。

動画を見始めて、自分を認めることをしなさいと言われて、その意味が分からなかったのですが、とりあえず「自分はよくやっている」「わたしは素晴らしい」と口先だけでも自分に言い続けました。当時のわたしは、動画で話している人の言うことを、少しずつやってみていたのです。

色々なことをやっていたので、他の要因もあるかもしれませんが、自分に今ある幸せは、当たり前のことではないことにも気付きました。

どんな幸せかというと、例えば、朝目が覚めることや、元気にご飯を食べられることや、家があること、仕事があること、友人がいること、出先から無事に帰ってくること、今日生きていることなどです。他にも花がきれいとか、空気がおいしいとか、環境に対しても幸せはたくさんあります。

こういうことに気付く練習をしている内に、心が広くなった気がします。そして以前ほど周囲の喧騒が気にならなくなりました。自分は自分で、他人は他人。他人は出来るけど、わたしには出来ないことがあるし、反対にわたしには出来るけど、他人には出来なことがあることにも気付けたのです。

時々調子に乗ってしまって、わたしにしか出来ないだろうと思っていたら、相手も簡単に出来ていたこともありましたけどね。ちょっと恥ずかしかったです。

このように、自分が持っているものに目を向けるようになったことで、自分への厳しさが薄らいできました。肩ひじ張っていたのが、遠い昔のことのようです。

「足るを知る者は富む」と言いますが、足るを知ることはとても大事なことだと思います。足るを知り、自分を褒め労うことで、一瞬先の自分が大きく飛躍するようになる、気がします。

怒りの根底には

深層心理の話-1

三次元から離れた意識を持つということ

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